馬籠宿(岐阜県)
2015年 08月 31日
馬籠宿
中山道69宿のうち木曽には11の宿場があり、馬籠宿は板橋を1番目とすると43番目になり、江戸からの距離は332kmになる。道路が南北に貫通しているが急な山の尾根に沿っているので、急斜面で、その両側に石垣を築いては屋敷を造る「坂のある宿場」である。
1882年(明治25年)木曽川沿いに国道が開設され、さらに1912年(明治45年)国鉄中央線が全線開通した。馬籠、妻籠は全く人通りが絶え、両村は陸の孤島化し長い間の貧困生活のなかで、外部からの刺激もないまま江戸時代そのままの生活を続けてきた両村が、観光地として脚光を浴びだしたのは日本が高度経済成長期に入った頃。
馬籠は島崎藤村の生地として、藤村記念館を訪れる人が飛躍的に増加するようになった。受け入れるための、宿泊施設や食堂、土産店が出現し、労働力の需要も増加し地域が活気を呈してきた。
このため1967(昭和42年)、馬籠観光協会が発足し組織的な活動を開始するようになった。宿の町並みの景観整備について、住民パワーで1978年(昭和53年)から2年がかりで町並みの電柱撤去。街道から見えるテレビアンテナや自動販売機にもそれぞれ配慮が加えられた。
本陣・脇本陣は共に公儀宿泊休憩のための施設として宿場には必ず設けなければならなかった。本陣は高貴な人の宿泊に備え、広大な邸宅と多くの使用人を常に抱えていなければならず、このためかなりの財力を必要とした。多くは世襲制で一種の家格となっていた。本陣だけでは受け入れ収容に支障があるので脇本陣を置いた。脇本陣は建物や規模などは本陣に準じており本陣同様世襲になっていた。
大名等の休泊
中山道の通行はなかなか頻繁で参勤交代の西国大名34家の指定路であり、尾州侯の参府は中山道であった。このほか大阪二条城番・日光例幣使などは片道は必ず中山道を利用した。皇女、親王家・姫宮の降嫁の節の道筋は殆ど中山道を利用しており、このため中山道は姫街道などともいった。
旅 籠
本陣や脇本陣が高貴な人々の宿泊に備えるものであれば、一般の旅人の利用する宿泊施設に旅籠・商人宿があり、さらに下級な施設に木賃宿や馬宿があった。旅寵は食事を提供してくれる宿屋であり、木賃宿は食事の提供はなく泊めるだけの宿である。馬籠宿には8軒ほどの旅籠があった。
馬 宿
馬宿は荷物運搬を業とする駄賃稼ぎの人々を相手とする旅舎で、牛馬と牛馬引きの人を同時に宿泊させた。宿には牛馬を係留する厩があり牛馬には飼料を与えた。宿泊料は木賃程度で旅舎としては粗末な部位に属した。宿場の入り口付近に2軒あったことが記録に残る。
by ButcherTake
| 2015-08-31 22:36
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